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1 戦い済んで日が暮れて
有馬記念が終ると、道に電柱の長い影が伸びている夕暮れの風景が思い浮かぶ。 “1年間の戦いが終わった”と、些か寂寥感にも似た気持ち襲われる。勿論、面白いし、楽しいから続けていることには違いないのだし、的中することも簡単なことではないと分ってはいるのだが、どうあがいても勝てない日が続くと、それなりに暗い気持ちにならぬものでもない。「今年もそんな1年だったな」、との感慨を持つのも毎度のことである。
今年も、JRA競馬開催日(のべ109日)には全て参加。レースが行われた日には多少なりとも何がしかの馬券は買っていたことになる。外れ馬券ばかりを買い込み、頼まれもしないのに、せっせとJRA(ひいては国に)献金を続けてきたようなものであるから、JRAより皆勤賞や努力賞を戴きたいほどのものだが。
1年間に購入したレース数は489。回収率は88%。残念ながら今年も目標とした回収率100%超は達成できなかった。万馬券の的中回数は73回だったが殆んど100倍以上の大穴馬券ばかりを買っているのだから、的中すれば万馬券ということになるのも当然と言えよう。うち10万馬券の的中数は12回。的中最高オッズは4400.7倍。
例年のことだが、1月は惨憺たる成績に終わることが多い。今年も例外ではなかった。時間の経過とともに順調に?赤字が積み上がっていくのだが、今年は、4月に弟と父が立て続けにあの世に行ってしまい、葬儀の日に弔いのつもりで買った命日の数字などでの馬券が的中し、赤字解消。一時は回収率が100%を超えたのだったが、その後はまた凋落の一途。特に夏のローカル競馬ではかなりのマイナスを計上してしまい、9月の中山競馬場(地元なのだが)には気合いを入れてせっせと通い、更に傷口を広げる結果となってしまった。
今年もマイナス決算必至という状況だったが、10月に入り、毎日王冠(10月10日)の週から、4週続けて1000倍を超える馬券が的中した。まぐれ、偶然、幸運ということだろうが、こんなことは生涯初めてである。見る間に赤字が減少し、殆んど年間の負けを回収、「初めて回収率100%を超えることが出来そうだ」と思えるまでになったのだったが。「軍資金が豊かになればレート(購入する額の単位)を上げることを誰でもやるが、結局は大怪我をする」との先人の言葉がある。少しばかり豊かになった軍資金で、菊花賞、天皇賞(秋)では、的中すれば、今年の負けはおろか生涯の負け分をも取り返すことが出来るほどにも、穴馬券をしこたま買い込んだのである。結果は言うまでもない。
2 修道女フィデルマの洞察
北上次郎の文章で、ピーター・トレメインの著作「修道女フィデルマの洞察」のことを知った。修道女フィデルマは、上位弁護士の資格を持つ古代アイルランドの王女であり、行動的に各地を巡り難解な事件の謎を解いて行く、というシリーズである。このシリーズの中に「名馬の死」という一編があり、そこで著者は修道女フィデルマの師匠である修道院長ラズローンにこのようなことを言わせている。「競馬は、人間のあらゆる悪しき心を取り除いてくれますぞ。人間の攻撃性や貪婪なる欲望を、当人に代わって発散させてくれますから」。(甲斐萬里江訳 創元推理文庫)
そうかな、と思った。はずれ馬券をせっせと買い続けてはいても、まれに大穴が的中し相応の資金を手に入れることがある(といっても、馬券を買い続けていなければそれ以上のお金が手元に残っていることにはなるのだが)。そうなると、途端に「軍資金が出来た。よーし、今年の負けはおろか、生涯の分まで」など力み返り、しこたま馬券を買い込み、あえなく敗退することを繰り返していることは、どう説明できるのだろうか、と思ったのである。もっとも、ラズローン修道院長の言葉の意味は小説の結末で明らかになるのだけれども。
言うまでもなく、一寸先は闇である。誰も結果を予知出来ぬから賭けが成り立つのだと考えるし、未来の結果を予測・予想することは、縺れに縺れた糸を根気強くほぐして行く作業のようなものである。自分のフォームをしっかり持って予知不可能な結果にチャレンジするのでなければ勝利は覚束ない(フォームが出来ていたとしても勝てるとは限らないのであるが)のである。「よーし」と力が入った時には、気づかぬうちに自分のフォームが崩れてしまっているのだろうと考えている。従って、「今年の負けはおろか、生涯の負け分まで」など一度たりとて実現できたためしはないのである。友人がいみじくも言った。「お前を見ていると、負けるために競馬をやっているように思える」と。
この小生の愚かな所業の繰り返しは、ラズローン修道院長が言う「人間の攻撃性や貪婪なる欲望を、当人に代わって発散させてくれますから」の言葉とは正反対ではないか、と思ったのである。小生の所業は、まさしく、「悪しき心や人間の貪婪なる欲望」そのものではないか。小生の場合には、まれに穴馬券が的中することで、むしろ、貪婪なる欲望に火がついてしまうようなものである。馬鹿(言うまでもなく自分のことです)がやっていることなのだから、理屈をつけたり、説明しようとすることも無駄なのだし、フィクションの中のセリフに文句をつけても始まらないのだが、複雑に絡んだ糸をほぐすようにして予想すること自体が面白く、まぐれで当たれば自分の推理が当たったとの快感があるし、それなりに経済的ご利益もあること、目の前を美しい生き物が猛スピードで駆け抜けて行く非日常的な光景に酔うような心持になること、などなど、自分にとって競馬は極めて魅力的であり、また、競馬以上に面白い遊びを知らないこともあるから、負けても負けても続けているのだろうと思うし、「貪婪なる欲望」に振り回され続けてもいるものと思う。
ただ、ピーター・トレメインは「名馬の死」の中で、ラズローン修道院長にこのようにも言わせている。「競馬という機能なくしては、この世は今よりも遥かに殺伐たるものであるに違いない」(同上)と。これには深く肯くのだが。
3 すべては有馬記念のため
年の初めに100円均一の店で、500円玉なら10万円貯まると表示されている貯金箱を購入する。ポケットに小銭がたまった時に何枚かのコインを投入していくのだが、1年の内には殆んど貯金箱が一杯になる。これを、クリスマスの夜に割って取り出し、そのお金で有馬記念の馬券を買うことにしている。4〜5年前から始めたと覚えているが、その間、有馬記念の馬券が的中したという記憶はない。
なぜ始めたかというと、ポケットの小銭が重く鬱陶しい時に、貯金箱に何枚かを放り込むようにしていたら、いつの間にか結構な額が貯まっていたことに気付いたためである。毎週土日には必ず馬券を購入しているが、当然のことながら有り余るほどの軍資金などあろうはずがない。「まとめてドーンと大穴に」というのは、大げさに言えば、バクチ打ちの見果てぬ夢のようなものである。貯まった貯金箱を見て、「1年間の思いを込め、これをまとめて全部有馬記念に」と思い付いたのである。
勝負は本来孤独なものである。その栄光(殆んどないが)も悲惨も全てひとりで背負って行かなければならないのだが、年の最後の馬券には家族も巻き込むことにしたのである。「全部を有馬記念に賭けても良い」との前提で、貯金箱のお金を家族にも少々分配するのだが、息子と娘は、クリスマスの夜に金槌を用意し、年中行事と化した感のある貯金箱割りを楽しみにしている。ただ、息子と娘は分配されたお金を全部賭けてしまったことはない。100円ずつ細々と賭けるのだが、それも分相応で良かろうと思っている。
残りは小生の軍資金である。今年も、「Boys, be ambitiousだ」などと力んで、起死回生の逆転を狙い、そっくり有馬記念に賭けたのだが、またしてもJRAに献金する結果となってしまったのである。中ったのは、全出走馬の複勝を100円ずつ買った娘のみ。それとて投入資金が回収できた訳ではなかったのである。
競馬ミステリーの大御所ディック・フランシスはその著書「血統」で魅力的な人妻にこう言わせている、「あなた、馬というド畜生のいちばん基本的なこと知ってる?それは男の心を奪って愚か者にすることよ」(菊池光訳 ハヤカワ文庫)
【2010.12.31】
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