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昭和43年(1968年)、私は札幌で学生生活を送っていました。授業には殆ど出席しない劣等生でしたが、体育会の野球部に籍をおき、毎日のように野球の練習には出かけておりました。そんな8月末の日曜日、練習が終わった時に茨城出身のYという同級生から、「札幌記念があるから、これから競馬場に行かないか」と誘われました。Yは小柄でやや非力なタイプながら、器用さと球に喰らいつく旺盛なガッツで2番打者などのつなぎ役を任されており、試合では一度も三振したことのない貴重な選手でした。
キャンパス内には演習農場があり、競馬場は農場に隣接しています。競馬の開催日にはレースの開始を告げるファンファーレが学内に聞えてきたものです。すぐ近くにはあるものの、“競馬場は鉄火場。素人が出入りすべきでない怖いところ”、との思いもあり躊躇いました。が、Yの「マーチス(※1)を見に行こう」の言葉で行ってみようかの気になりました。マーチスがその年の皐月賞を勝ったことは、新聞を見て知っていましたし、クラシック・レース(※2)を制覇することが出来た馬というのはどんな馬なのだろう、との興味はあったのです。レースのスタートまでは余り時間もないことから、汚れたユニフォーム姿のままで競馬場へ急ぎました。着替えていたら、競馬場には行かなかったように思います。博打の場に行くことには、やはり心理的な抵抗感がかなりありました。
入場料は100円だったと記憶しています。初めて足を踏み入れた競馬場は広く、どこへ行けば何があるのかさっぱり分かりませんでしたが、何度も足を運んだ訳でもないだろうに、Yは「あっち」、今度は「こっち」と訳知り顔で引率しました。当時の札幌競馬場は左回りのダートコース(※3)だけ。内馬場(※4)には観客席もありましたが、バックネットを張った野球のグラウンドもありました。内馬場とメインスタンドの行き来は、
一つのレースを走り終えた馬たちが引き上げ、次のレースの出走馬が姿を現すまでの間に係員がコースに敷いたベニヤ板の上を急いで渡る、という状態でした。ひとしきり観客の移動が済むとベニヤ板が片付けられ、移動禁止となる訳です。何かのんびりした感じでした。
お目当ての札幌記念は、ダービーで3強と云われた、タケシバオー(※5)、アサカオー(※6)、マーチスを尻目にまんまと逃げ切り大穴をあけたタニノハローモア、1歳年上ですが期待されながら遂にクラシック・レースに縁がなく、悲運の血(※7)を背負った名馬といわれていたモンタサン、快速牝馬として鳴らしたファインローズなど10頭が出走していました。ハンデキャップ・レース(※8)で、60キロを背負ったモンタサンが3枠3番、56キロのタニノハローモアが3枠4番、マーチスは57キロのハンデで6枠9番でした。
当然のように馬券を買う相談をしました。互いに別の組み合わせを買って当った方がご馳走しよう、という訳です。当時は「未成年者、学生・生徒は馬券を買ってはならない」という時代でした。既に20歳は過ぎていましたが、出来が悪いとはいえども学生であるには違いありません。馬券を購入するのは法令を犯すことでしたが、200円券を1枚ずつ買うことにしました。
当時発売されていた馬券は単勝、複勝、枠番連勝(枠連)の3種類ですが、この年に札幌競馬場で発売されていた枠連は、6枠の単式でした。中央競馬(JRA)での枠連は6枠の連勝単式からはじまっています。ダービー、菊花賞など東京や京都のコースで行われる競馬では、既に8枠の連勝複式が発売されておりましたが、丁度、6枠連勝単式から8枠連勝複式への切替の時期であり、札幌では未だに6枠の連勝単式が発売されていた、という訳です。発売設備の更改が済んでいなかったためだろうと思いますが、おかげで、今では買う事の出来ない馬券を買う体験をしたことになります。
6枠の連勝単式と8枠の連勝複式の組み合わせ数はいずれも最大36通りですから確率的には差はないように見えるものの1、2着を着順どおりに当てなければならない単式と、1、2着が入れ替わっても的中となる複式では心理的にはかなりな差があるように思います。「モンタサンとタニノハローモアの3−3が良い」と私が云いました。これなら1、2着の順番はどうでもいいことになります。12倍ほどのオッズだったと記憶しています。「それならオレは3−6だ」とY。枠連の組み合わせを表示する札が下がった発売窓口(※9)を探し200円券を1枚ずつ買いました。今日では到底手にすることのできない、ペラペラの紙にミシン目で組み合わせ番号の穴が空けられた馬券です。手に持っても心もとなく、ポケットに入れれば忘れてしまいそうなほどの儚いものでした。
馬券を買ってゴール前に急ぎました。スタートが近づくとファンが正面スタンドに続々と集まってきます。ゴール前にスペースを見つけ、柵に凭れてレースを見ました。予想通りに、タニノハローモアが軽快な足捌きで、後続に差をつけて逃げました。よどみないレースだったと思いますが、今日のようにターフビジョンがある訳ではありません。レースの途中はタニノハローモアの赤い帽子(※10)が終始リードを保っていることだけしか分かりませんでした。
コースを一回りして馬群が最後の直線に入ってきました。ホームストレッチの中ほどでモンタサンがタニノハローモアに並びかけ、交わし、少し前に出ました。タニノハローモアはしぶとく食い下がっています。赤い帽子が2つ、縺れるようにしてゴールに向って来ました。札幌競馬場の直線は短く、260米程だったと記憶しています。後続とは、到底逆転が不可能な程の差がついていると見えました。にわかに心臓が高鳴りだしました。買っていた3−3でもう間違いない、と思ったからです。
ところが、ゴールまであと50米ほどになった時です。後続の馬群の中から突然コースの大外(観客席側)に馬体を持ち出し、物凄いスピードで飛ぶように駆けてきた馬がいました。折からの西日を受け、明るい栗毛がひときわ輝き、金色のペガサスが目の前に飛んできたような気さえしたものです。
「あ、何事が・・」と思うまもなく、その馬は私達の直ぐ目の前を駆け抜けて行ってしまいました。古賀敏文騎手の一鞭に、爆発的な末脚を繰り出したマーチスでした。唖然、呆然。目の前の出来事をなんと表現したらいいものか言葉もありません。2馬身遅れの2着がモンタサン、さらに半馬身差での3着がタニノハローモアの決着でした。自分の3−3もYの3−6も、紙くずになってしまいましたが、束の間の淡い期待が瞬時に吹き飛ばされてしまった無念さより、「競馬は、明らかに人間の徒競走とは違うのだ」との思いで一杯でした。動悸が治まりかけた頃、「マーチスはこの物凄いフットワークで皐月賞に勝ったのだ」ということに思いが到ったのでした。
マーチスはこの後、1番人気に推された菊花賞ではアサカオーの3着に敗れ、クラシック・レースは皐月賞一冠のみに終わりました。古馬(現在の表記での4歳)になってからも、天皇賞や有馬記念などで期待を集めたものの、皐月賞以後は大レースを勝つことは出来ませんでした。明るい栗毛で人気が高く、生涯31戦中21戦で1番人気に支持されています。早熟だったのかも知れない、と後になってみれば思われるのですが、ファンはあの豪快なフットワークに魅せられ期待し続けたということだろうと思います。マーチスは1970年に引退し種牡馬となりましたが、残念ながら目立った活躍馬は出ず、1988年11月10日に老衰のため死亡しています。
そして、私を初めて競馬場に連れて行ってくれたYも既にこの世にはおりません。一緒にマーチスの末脚に圧倒された5年後のこと、社会人となって家庭も持ち、奥さんのお腹には2人目のお子さんが授かり、公私ともに順風満帆と見えていた時に、無情にも事故で他界してしまいました。
マーチスを競馬場で見たのはこの札幌記念の時ただ一度きりですが、目の前を何の前触れも無く、金色に輝く馬体が風のように飛んで行った光景は、40年前のことながら、今でも眼前にまざまざと甦ります。同時に27年の短い生涯を、あっと云う間に彼岸にまで駆け抜けて行ってしまったYの姿にも重なるのです。
以上
【2008.2.4】
※1.マーチス:1965年5月11日生。父ネヴァービート、母クッツ(母の父クモハタ)。競走成績は31戦14勝。獲得賞金1億386万円余。皐月賞、スプリング・ステークス、NHK杯、ハリウッドターフクラブ賞など重賞競走7勝。
※2.クラシック・レース:JRAの競走体系はイギリスに範をとっており、クラシック・レースとは、3歳時の皐月賞(2000ギニー)、ダービー、菊花賞(セントレジャー)、桜花賞(1000ギニー)、オークスの5つの競走をいう。サラブレッドはすべからくクラシック・レースの勝馬となることを夢見て生まれてくる、と言って過言ではなく、桜花賞とオークスは牝馬のみの競走である。我が国のダービーの正式名称は東京優駿、オークスは優駿牝馬である。カッコ内はイギリスでのレースの名称。
※3.ダートコース:レースが行われるコースには、芝コースとダートコースの2種類がある。ダートコースは砂利などの基盤の上に砂を敷き詰めて作られており、芝のコースに比べてパワーが必要であり、タイムは遅い傾向にあるが、芝コースに比べ馬の脚部にかかる負担は少ないとされる。
※4.内馬場:コースの内側にある広いスペース。京都競馬場には白鳥が棲む大きな池があるので有名。
※5.タケシバオー:1965年4月23日生。父チャイナロック、母タカツナミ(母の父ヤシママンナ)。競走成績は29戦16勝。獲得賞金1億1365万円余で、中央競馬(JRA)初の1億円馬である。天皇賞(春)、朝日杯3歳ステークス(現在の朝日杯フューチュリティ・ステークス)、毎日王冠など重賞競走7勝。距離(1200米〜3200米)、コース(芝・ダート)、馬場状態(良・重・不良)、斤量(ジューン・ステークスでは65キロを背負い勝利)を問わずに勝ち、5つのレコード勝ちも記録したオールラウンダーで、“万能の怪物”と呼ばれた。引退後8年間の種牡馬生活を送り、愛知杯2勝のトウカンタケシバ、東西の金杯を制したドウカンヤシマ、公営競馬の強豪ハツシバオーなどを輩出したが、1992年1月12日死去。JRAの顕彰馬となっている。
※6.アサカオー:1965年5月12日生。父ヒンドスタン、母ナミノオト(母の父Borealis)。競走成績は24戦8勝。獲得賞金8306万円余。菊花賞、弥生賞、AJC杯など重賞競走5勝。引退後に種牡馬となったが、生涯の産駒はわずかに48頭のみであり、活躍馬を輩出することは出来なかった。1980年7月20日没。
※7.悲運の血:モンタサンの父モンタヴァルは、1953年仏生まれ。1961年に種牡馬として日本に輸入され、菊花賞を制しながら骨折し悲劇的な最期を遂げたナスノコトブキ、皐月賞馬ニホンピロエースなどを輩出したが、1965年に死亡。作家の寺山修司がモンタヴァルとその産駒の不運な境遇に注目して『モンタヴァル一家の血の呪いについて』というエッセイを残している。モンタヴァルの代表産駒の一頭であるモンタサンは、母リュウリキ(母の父ヒカルメイジ)。競走成績は27戦12勝。獲得賞金5000万円余。寺山修司が盛んに肩入れしていたことでも知られている。
※8.ハンデキャップ・レース:レース毎に競走馬が負担する重量(騎手の体重、鞍などの合計の重さ)が決められており、定量戦(各馬が一定の重量を負担する)とハンデキャップ戦に大別される。ハンデ戦は出走全馬が同時にゴールインすることを想定し、出走馬の競走成績や性別、レースの距離などをハンデキャッパーが勘案して、負担重量を決めて行われるレース。重い重量を背負う馬ほど能力が高いと評価される。
※9.発売窓口:当時は組み合わせごとに売り場の窓口が異なっており、窓口ごとに1−2などの組み合わせを表示した札が下げられていた。主催者がレースごとに人気の組み合わせを想定し、窓口数を調整していた。窓口数の多い組み合わせほど、人気になると競馬会が推定していたことになる
※10.帽色:乗っている馬の枠順により、騎手の帽子の色が決められている。赤は3枠の帽色。1〜8枠それぞれの色は、白、黒、赤、青、黄、緑、橙、桃である。
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