思い出 その1(二人の先生)
昨年(2009年)9月に、満70歳、古希と呼ばれる歳を迎え、嫌でも先がそう永くはないことを意識せざるを得なくなった。孔子様は、70歳になって、「心の欲するところに従って矩(のり)を踰(こ)えず(思うままにふるまっても、道をはずれないようになった)。」とおっしゃったそうだが、私の場合には、とてもそんな風にはなれそうもない。思うままにふるまえば、必ず、やり過ぎたり、失敗したりして人に迷惑を及ぼすことになるに違いない。
先が短いという意識が、時を遡って遠い過去へと向うことも多く、忘れて居た筈の古い記憶が、妙に懐かしく、鮮やかに思い出されることもある。人に話せば、「センチメンタルな!」と、笑われてしまいそうな他愛もないことが多いのだけれど、本人にとっては、懐かしく、貴重な記憶である。こうした思い出のいくつかを、記憶の底から拾い出して、辿る試みをしてみたい。
K先生の授業
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私は、昭和21(1946)年春に埼玉県東松山市(両親の故郷)の小学校に入学したが、1年生の2学期には、両親が東京下町へ転居したので、墨田区の小学校に転校した。低学年の頃は、当時の食料事情もあって、栄養失調気味で、身体が弱く、体育が苦手で、集団生活に馴染みにくい性格だったため、学校が嫌いだった。先生にも良くしてもらったという楽しい記憶は少なく、むしろ大方の先生は、怖くて嫌な存在だった。しかし、そんな私の性格や行為をよく理解して、優しく穏やかに指導してくださった、小学5年生の学級担任だったK先生のことは、今でも懐かしく思い出される。K先生は、私の在籍した5年3組を担任されたのが、おそらく学校を出て初めての担任だったのではないかと思う。小柄で、目が丸くて、しもぶくれの顔で、いつもにこにこしている優しい先生だった。 |
| 後列真ん中がK先生、最前列左から2人目が私 |
当時の私は、父が時々買ってくれる吉川英治や、佐藤紅緑(詩人サトウハチローと作家佐藤愛子兄妹の父で、小説家)の少年向けの小説を3歳上の姉と先を争うようにして読みふける、本好きで、すこしませた少年であった。当時読んだ本は、佐藤紅緑の「ああ玉杯に花受けて」とか、吉川英治の「ひよどり草紙」、南洋一郎の「バルーバの冒険 」などの題名を憶えている。
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K先生は、私たちにときどき、作文や詩の指導をしてくださったが、あるとき、校庭に見えるものを題材として詩を書くというテーマが与えられた。校庭の真ん中には欅と楠の大木が聳えており、私はその楠を擬人化して、それに呼びかけるような調子の詩(?)を書いて、提出した。先生はそれを読んで、にこにこしながら、「柳下君は、本を読むのが好きなんだね。次には、自分の目に見えたとおりに書いてみてね。」と言われた。私は、先生が「上手だね」と言って褒めてくださることを期待していたので、このように言われて、少し落胆したのだが、同時にそんな期待をした自分が恥ずかしくも感じられたのだった。次の折には、校庭に雨が降る様子を観察して、それを描写して提出した。先生は、「良く書けているよ。」と言ってくださった。 |
| 滝田ゆう作「寺島町奇譚」より |
理科で、「ものは何故見えるのか?」をテーマにした授業があった。先生の質問に手を上げて指名された私は、教科書に書かれている通りに、「太陽の光がものにあたって、反射して人の目に入るのです。」という風に答えた。先生は、更に質問を重ねて、「では、曇りの日にも、ものが見えるのはどうしてなのでしょうね?曇りの日には、太陽は雲に隠れて見えないよね?」と言われる。この質問に答えられなくなった私を、座らせて、先生は改めて教室の皆に同じ質問をされた。しばらくの沈黙の後、I君が手を上げて答える。「光が雲の中を通って来るのだと思います。」、先生「そうかもしれませんね、でもどうしてそう考えられるのかしら?光は雲の中を本当に通れるのかな?」、この第三の質問には、誰も答えられなかった。しばらく、皆に考えさせたあとで、先生は手元に置いてあった、水を入れたガラスのコップを取り上げて、机の間を歩きながら、コップを通して何が見えるかを聞いて回る。コップの向こう側には、K先生の笑顔が見えた。「見えますか?水にはこのように光を通す性質があるのですね。雲が空気中の水分から出来ていることは、習いましたね。雲も、このコップの水のように、光を通す性質があるのです。」私は、鮮やかな謎解きを目の前で見せられたような強い印象を受けて、その日は、下校時にも先生の言葉を反すうしていた。先生は、この授業で、私たちに、何かを理解するためには、自分で考えること、今知っていることを根拠にして、そのうえに考えを組み立てることが大事なことだと教えてくださったように思う。私は、5年生修了と同時にこの小学校から、同じ墨田区内の別の小学校に転校したために、K先生とは、その後会えなくなってしまった。5年修了時の別れに際して、先生が私に言ってくださった「沢山本を読みなさいね。」という餞の言葉は、私にとって貴重な思い出となった。
N教授との約束
1961年4月に大学の経済学部に進学した私は、その少し前に読んでいた、ケネーの「経済表」という、薄い岩波文庫版の内容に興味を覚えて、漠然とした思いではあったけれど、マクロ経済分析の勉強をしてみたいと思い、N教授の指導される「統計学演習」というゼミナールに参加することを志望し、許されたので、同ゼミに参加して、N教授の指導を受けることになった。ゼミでは、はじめの頃、書名を忘れてしまったが、外国の著者による1節ごとに統計表とその解説のついたテキストの読み合わせを参加者(学生)が交代で、リポータを務めながら勉強した。私も1度だけ、リポータ役を分担したのだが、N先生の質問攻めに、しどろもどろになって、冷や汗をかいたことを思い出す。それでも先生は、終わりに「ご苦労様でした。」と言ってくださったのだが、当時の私には、この言葉が好意に基づくと判っていながら、自分の出来が悪いのを先生が慰めてくれたのかなという思いとともに受けたのだった。このはじめの比較的軽い書物の読み合わせが終わった後、次に使用するテキストとして、大冊の「解説日本経済統計」(岩波書店刊)が決まり、本来なら、張り切って一層勉強に取り組む時期(夏休みの後くらいだった)から、私は、次第にゼミから、足が遠のいてしまうようになり、4年生になる頃には、まったく出席しなくなってしまっていた。当時は、4年生の夏から秋にかけて就職活動があり、私もある金融機関の内定を受けて、あとは卒業までに必要な単位取得を済ませるだけになった時期(多分、その年(1962年;昭和37年)の年末ではなかったかと思う。)に、経済学部の事務室から私宛に「至急、N教授のところへ来るように」という旨の通知を受けた。忘れようとしていたゼミナールの指導教授からの呼出状に、慌てて、N先生の教授室に恐る恐る出向いた。先生は、教授室の奥に、穏やかな表情をして座っておられたが、「君は、ゼミに余り出てこなかったようだが、演習の単位は必要かね?」とおっしゃる。当時、経済学部では卒業論文提出の制度はなく、それに代わるものとして演習科目があると言われていた。つまり、演習科目の単位取得は、経済学部で真面目に勉強したことの証とされていた。私は、そのことを十分意識しながら、そして内心の恥ずかしさを堪えて、「できたら、単位を頂きたいです。」と答えた。先生は、「君は、経済学部では余り勉強しなかったようだが、大学を出てからでも良いから勉強しなさい。」と言ってくださった。
その年、私は結局、卒業するために必要な、数科目の試験をキャンセルしてしまったため、卒業できず、もう1年間大学に留まることになったのだが、翌年3月に受け取った成績表を見ると、統計学演習の科目には“優”の文字が輝いていた。N教授の温情による評点であることは間違いないが、それでも嬉しかった。私は、N教授に喝を入れられたように感じ、大学5年目の1年間は、真剣に勉強をして、残っていた数科目の単位を取得して、1964年3月に卒業した。
N教授の言われた言葉のうち、もう一つ記憶に残っているものに、「経済を理解するのに一番良い方法は、経済新聞を隅から隅まで読むことです。」という言葉がある。ゼミの合間に、先生がおっしゃった言葉だったが、この言葉も上の「勉強しなさい。」とともに、折に触れて記憶の底から浮かび上がってくる。
N先生は、私の卒業8年後の1972年5月に、当時出講されていたある私立大学への通勤途上で倒れ、急逝された。享年67歳であった。先生の二つの言葉は、私にとって金言となった。
私の手元には、先生の没後10年を記念して編まれた「N.M先生を偲ぶ」と題した布張りハードカバーのコンパクトで、美しい文集がある。著名な経済学者、統計学者が追悼文を寄せ、先生の奥様も先生を偲ぶ真情の込められた和歌14首を寄稿されているもので、かつてのゼミ参加者にも頒布されたので、私の手元にもあるのだが、この文集に表現された先生の人間像に触れると、今更ながら怠惰に過ごしてしまった学生の頃が悔やまれる。
先生との約束を卒業後の私が忠実に果たせたかどうか、もしあの世で先生にお会いすることがあれば、申し開きができるかどうか自信はないが、新聞をよく読むことだけは曲りなりにもやってきたし、今後もできる限り、続けたいと思っている。[2010.3.19]