近江・美濃ドライブ旅行記

― 琵琶湖周辺三日間の旅 ―

 

 821日(日)から、23日(火)までの三日間、MIC会員仲間の四人(瀬川、辻、丸中、柳下)で、連立って、琵琶湖周辺を旅してきました。今年(2011年)の夏のはじめに、辻さんとの間で、「9月頃、『奥の細道』の跡を辿る旅」をしてみようかという話があったところへ、辻さん所属の歌会グループの歌会が米原で開かれる事を機に、関西在住のお二人(瀬川、丸中両氏)と会って、琵琶湖周辺を三人で旅することが先に決まり、その話の中で、大垣にある「奥の細道」終点の地にも寄ってみようかということになり、それでは柳下にも声をかけてみようかとなって、私も近江ははじめて、大垣の地にも興味があり、この話に乗ったものでした。以下は、瀬川さんというこの上ない案内役のリードを得て、三日間に比叡山・湖北・大垣を駆け歩いてきた旅の記録です。

 

第一日 821 (日)

 午前4時半起床、55分、まだ薄暗い道を駅まで歩き、538分、始発電車から3番目の列車に乗車し、辻さんの待つ高幡不動駅へと向かう。途中、分倍河原駅での乗り換えに手間取り、約束の時刻より25分遅れて、高幡不動駅到着、出発早々に、辻さんにはご迷惑をかけてしまった。高幡不動駅出発は、715分頃になる。中央高速から、東名に入るコースをとり、一路米原へと向かう。生憎、雲が厚くたれこめて、沿道の景色は、富士も八ヶ岳連峰も南アルプスの山並も見ることはできず、途中中央高速から、東名に切り替わる辺りでは、豪雨に遭う。幸い、狭い範囲の雨だったようで、SAでの昼食後は、晴れ間も覗くなか、米原駅前に午後1時半到着、ここで、歌会に出る辻さんと別れて、単独行動になる。車中、辻さんに勧められた長浜に行くか、瀬川さんに事前に推奨されていた安土へ行くか迷ったが、電車の便の良い長浜を見ることにして、1359分発の列車で、長浜へ向かう。小雨の降る中、先ず長浜城址のあるという公園に向かう。公園内の木立を抜けると天守閣風の建物が目に入る。入館して5階の展望台で、眺望を楽しむ。北は浅井氏の小谷城址、関ヶ原、賤ヶ岳、南には信長の安土城址、西は琵琶湖、この長浜の地が、当時、戦略上の要地であったことが良く判る。信長は浅井・朝倉氏との戦いにおける秀吉の手柄を認めて、浅井の旧支配地を秀吉に与えたと言われるが、秀吉がこの土地に城を持つことを望み、それを信長も認めたのだとすれば、秀吉の着眼の良さと、二人の主従の間の微妙な関係が興味深い。2階、3階の展示室では、NHK大河ドラマ「江」関連の展示をしていたが、こちらには興味が湧かず、早々に降りて、商店街へと向かう。駅前通りは閑散としていたが、大手町通りに入るとこちらは、そこそこに賑わっており、やはり、「江」関連の展示が目立つ。小さなCaféに入って珈琲を飲み、小休止をとる。

 

長浜城歴史記念館 大手門通り商店街の賑わい

 

 この商店街は、鎌倉の鶴が丘八幡宮近くの「小町通り商店街」に似ているような気がする。一方は豊臣秀吉、他方は源頼朝という歴史上の大人物の名前を最大限に利用しており、観光客などの人集めに今のところは成功しているようである。ここでは、豊臣秀吉は例外なく秀吉公と敬称付きで呼ばれている。これは近江商人の末裔たちの商戦略の一環か?商店街の散策に時間を消費してしまい、慌てて駅に戻り、17時発赤穂行き快速に乗車する。乗車してから、商店街付近の長浜八幡宮に芭蕉の句碑があったことを観光マップの記述で知り、見て来なかったことを後悔する。守山駅に着いたときには、18時に近くなっており、今夜同宿する瀬川さんに、連絡しなければと思っていたところ、バス停でばったり遭遇する。18時発のバスで宿泊先、琵琶湖プラザに向かう。

 

第二日 822(月)

 午前6時起床、74分発のバスで、JR湖西線堅田駅へ、堅田から坂本駅まで乗り、比叡山ケーブル駅のある、京阪坂本駅まで、坂道を歩く。沿道の石垣が美しく、快い。瀬川氏の説明によれば、この坂本近辺には、穴太衆と呼ばれた石工集団が居住していて、穴太積みという独自の石組み技術を持っているのだという。坂道の途中に日吉大社があるが、山上の延暦寺を見た後、こちらへ回ることにして、大鳥居を見ながら、ケーブル駅へと急いだ。8時半発のケーブルカーに乗車し、延暦寺境内には9時少し前に着く。ケーブルカーの車窓から、眼下に琵琶湖の眺望が楽しめた。

 

日吉大社の大鳥居 比叡山ケーブルから琵琶湖を望む

 

 山上の鶴喜蕎麦で、朝食をとろうと入ったところ、開店前だったので、その前に根本中堂を見ることにして、根本中堂に向かう。本堂は公開されていて、見物客は自由に参観できるのが有難い。ただ、陽が射して明るい回廊から、階下の蝋燭の灯明だけで照明されている本堂内部を見下ろす形なので、内部は殆ど見えない。その暗い階下から、一人の僧侶の読経の声が聴こえてくる。天台宗の総本山らしい厳粛な空気が漂っていた。瀬川さんは、本尊の前に灯された、開基以来、1200年の間灯り続いているといわれる「不滅の法灯」について、信長の焼き打ちの際はどうしたのかを寺の人に確認してくる。「(同じ天台宗の)立石寺に移して避難していたそうです。」と納得しておられる。この話の信憑性については、今でも私自身は半信半疑であるが、古人の信仰心の強さを示すエピソードであり、素直に信じる方が精神の在り方として良いのかもしれない。

 

樹間からの根本中堂 承陽大師(道元)之塔

 

 

 西塔より先に横川(よかわ)を見ることにして、バスに乗車して横川へと向かう。横川中堂を見た後、急な石段を下りきったところに、承陽大師と呼ばれる曹洞宗の開祖、道元禅師の得度を記念した承陽大師之塔という石碑に出会う。曹洞宗は、我が家の檀那寺の宗派であり、道元禅師には、里見弴著「道元禅師の話」や、禅師の言行録「正法眼蔵隋問記」などを通じて、そのひたむきな仏道修行姿勢に敬意を抱いていたので、「此処で得度(出家)したのか。」という驚きとともに、その僧としての出発の地点に出会えたことを嬉しく思った。延暦寺は、日本仏教史上の多くの僧侶が若年の頃に、修行の場としたとされ、境内のいたるところにこれらの上人たち(最澄をはじめとして、空海、法然、親鸞、道元、日蓮など)を記念する掲示や、碑の類が並べられているのも面白かった。瀬川さんによれば、根本中堂の根本とは、日本仏教の根本の意を表しているのだとか。

 

西塔の本堂(釈迦堂) 西塔北部裏手の瑠璃堂

 

 横川から、西塔へ戻る。本堂の釈迦堂を見た後、信長の焼き打ちの被害を免れ、山上最古の建物と言われる瑠璃堂へと向かう。釈迦堂の裏側にあたるドライブウエイから、それらしい脇道に抜けて、所在を探したが、なかなかそれらしい姿が見えず、後方から歩いてきた若い女性に聞いてみるが、この人も「瑠璃堂に向かっているが、正確には知らない。」と言う。仕方なく、なお、前に進んでいると、先頭を歩いていた、瀬川さんが「ありました。」と知らせてくれた。東塔、西塔、横川の諸堂に比べると小さいが、均整のとれた姿の美しい御堂が建っている。この御堂の正確な建立時期は、判っていないらしいが、一説には13世紀末、元寇の頃には既に存在していたとの記録があるとのこと。これが事実であれば、700年以上の間、ここに建っていることになる。堂全体は古色を帯びてはいるが、老朽化した感じはない、丁寧に手入れされているのだろう。

 比叡山上の見物を終えて、ケーブルで下り、麓の日吉大社から、三井寺へと回る。

 

日吉大社西本宮楼門 日吉大社東本宮本殿
三井寺三重塔 芭蕉像

 

 三井寺は、延暦寺と対照的に、参詣者はちらほらと姿が見えるが、坊さんの姿は、まったくと言っていいくらいに見えない。境内では、ミンミン蝉がしきりに鳴いていたが、その声がかえって、寺内の閑寂さを強めているような気さえした。ただ、見ものは豊富で、弁慶の引き摺り鐘、近江八景の一、「三井晩鐘」の鐘楼、美しい建造物等を見て回る。鐘楼では、有料で参詣客に鐘を搗かせている。瀬川さんは、これを見て搗きたくなったのか、2度搗く。三井晩鐘を直ぐ傍で聞くという、貴重(?)な体験をすることができた。建造物の中では、写真の三重塔が印象に残った。境内をゆっくりと見て回るうちに、時刻は4時を回ってしまったので、辻さん、丸中さんと落ち合う予定のJR守山駅へ急ぐことにする。膳所駅でJRに乗り換えるつもりで切符を買って、京阪電車に乗ったが、瀬川さんから、京阪が市街地を走る石山まで乗って、「チンチン電車の雰囲気を楽しみましょう。」と言われるので、石山駅まで、足を伸ばす。石山駅の乗換口で、銅像を見かけたので、近寄ってみると、案の定「芭蕉像」であった。芭蕉は、奥の細道の旅の4年前、「野ざらし紀行」の旅の途次、はじめて大津を訪れ、この地を気に入り、その後も何度か定住し、墓所も遺言により、大津市内の義仲寺にあるとの説明書きがあった。この日の見物の結びに芭蕉像に出会えたのは幸運であった。守山駅で、大阪からの丸中さん、歌会と郷里の親戚訪問を終えてきた辻さんと落ち合い、今回旅行のメンバー4人全員が揃った。

 

第三日 823(火)

 この日は、旅行最終日、奥琵琶湖から、大垣までの各地を一日で見て歩く計画を組んでいるので、早朝にホテルを出て、先ず琵琶湖西岸の道路を北へ向かう(辻さんの車を瀬川さんが運転)。琵琶湖西岸の白髭神社で、車を止め、芭蕉の句碑などを見る。

 

ホテル玄関前(午前7時出発) 芭蕉句碑(四方より花吹入て鳰の湖)

 

 小休止の後、再び車は西岸を北へ進み、30分ほどして今津港で止まる。有名な琵琶湖周航の歌の歌碑がある風光明媚なところ(このときはまだ、少し陽が射していた。)であった。近くにある建物(土産物店だったかもしれない)の前に水栽培の鉢植えが置かれていて、ヒツジグサらしい花が一輪咲いていたのが印象に残った。次に琵琶湖西岸の田園地帯を30分ほど走って着いたのは、メタセコイアの並木と農産物を販売している施設のあるところで、下車。これほど多数のメタセコイアが琵琶湖近くにあることに驚かされたが、私の幼い頃の記憶では、メタセコイアは米国カリフォルニア州のヨセミテ公園にある巨木というイメージで、日本的な田園風景の中のやや異国的な風景にいささか違和感を覚えた。まだ、若木のようなので、これから成長するのに従って周囲の風物と調和して行くことを期待したい。

 

琵琶湖周航歌碑(午前810分撮影) メタセコイア並木(午前847分撮影)

 

 メタセコイア並木を後にして、琵琶湖北端の葛籠尾崎展望台に向かう(途中、湖畔のホテルで、朝昼を兼ねた食事をすませた。)。途中、湖岸に立ち並ぶ桜並木があって、春の風景はさぞかしと思わせる光景に出合う。先ほど、見て来た芭蕉の句碑「四方より・・・」の句も思い出す。この頃から次第に、空模様があやしくなり、眺望を期待できないため、予定していた賤ヶ岳訪問は止めることにして葛籠尾崎に直行。天候は下り坂であったが、まだ眺望は楽しめ、沖には竹生島が見えていた。この後、更に北に上り、琵琶湖最北端の塩津浜に立ち寄る。塩津では、知人宅を訪問する辻さんといったん別れ、残りの3人で道の駅‘あぢかまの里’に寄ってみたが、生憎休業日で、店は全部しまっており、いたしかたなく、そこだけ開いていた自動販売機コーナーで小休止をとる。

 

塩津の古い家並(午前1149) 七りん館(浅井歴史民俗資料館)(午後117分)

 

 知人宅訪問を終えた辻さんと合流し、西浅井の浅井歴史民俗資料館へ、同館の郷土学習館では、NHKで放映中のドラマ「江」をテーマにした浅井三姉妹展を開催中であった。資料館を後にしたときには、午後1時半を回っていたが、この頃から雨が本降りになり、激しい雨の中、今度は琵琶湖東岸を一路南下して、米原へ向かう。米原市の醒ヶ井というところを流れる地蔵川という清流に咲く梅花藻を見る。この花の花期は、5月中旬~8月下旬ということで、流れの中に咲いている花はごく僅かであったが、プランターの中で栽培された花はまだ、元気よく咲いていた。醒ヶ井は、中山道の宿場町の面影を残す街並みの中、清冽な地蔵川が流れ、地元の人も観光客に温かく、親切で、折よく雨も上がって、楽しく、快い一刻を過ごしてきた。

 

清流の梅花藻(手前の紅は百日紅、奥の白が梅花藻)(午後2時43分) プランターの梅花藻(午後2時51分)

 

 醒ヶ井を後にして、大垣へ向かう頃には、雨が再び強くなり、ところによっては、ゲリラ豪雨の様な、篠突く雨の中を進む。この旅行の最後の行程、芭蕉の足跡を辿るために大垣へと向かう。美濃国分寺、垂井の本龍寺、赤坂の明星輪寺をこの順序で回る。

 

本龍寺「作りなす庭をいさめるしぐれかな」(午後3時25分) 明星輪寺「はとのこえみにしみわたるいわとかな」(午後4時27分)

 

 国分寺は広く、見晴らしの良い場所に位置する大きな寺だったが、境内を回ってみても格別、芭蕉に関わりのありそうなものは見つからないので、仕方なく次の本龍寺へ向かう。ここには、「作りなす 庭をいさめる しぐれ哉」(趣深く作りなした庭に時雨が降り、さらに庭に生気を与えている;「芭蕉全句集」角川ソフィア文庫より)の句碑があった。寺の案内によれば、この句は住職と親交のあった芭蕉が元禄4年(奥の細道の旅の2年後)にここに滞在した折に作られた句とある。金生山明星輪寺は、車で行っても、かなりの奥深さが感じられる山上にあり、このような僻地の寺まで、訪れた芭蕉の熱意が偲ばれる。この寺には、「はとのこえ みにしみわたる いわとかな」(木深い奥の院の岩窟を前にして、寂しい山鳩の声を聞いていると、秋の冷たさがいっそう深く肌身にしみわたる思いがする;新潮日本古典集成「芭蕉句集」より)という芭蕉句碑があった。この句も奥の細道本文中には無いが、芭蕉が、旅中にこの寺に立ち寄ったこと、その折にこの句が作られたことは確実(日付も旧暦八月二十八日と特定されている。)のようである。

 

句碑「蛤のふたみに別行秋そ」(午後5時2分) 水門川畔に舫われた和船(午後5時4分)
旅を終えて1(午後5時17分) 旅を終えて2(午後5時6分)

 

 私たちのこの旅も、最後の行程に入り、奥の細道の結びの地を目指して、大垣市街へと入る。今まで、雨の田園地帯で芭蕉の足跡を辿るのに苦心していたのに、市街に入ると結びの地はあっけないほど、直ぐに見つかる。水門川という流れの畔に、芭蕉と当地の俳人、谷木因の立像と句碑、当時、船町港と呼ばれた、物資の集散地としての賑わいを伝える施設などが残されている。芭蕉は伊勢から出迎えに来た曾良らとともに、ここから乗船し、この川につながる揖斐川を下って、桑名を経て伊勢神宮に向かったとのことである。奥の細道(紀行文)の結びにはこのことを次のように記している。

 

 駒にたすけられて、大垣の庄に入れば、曾良も伊勢より来り合ひ、越人も馬をとばせて、如行が家に入り集まる。前川子、荊口父子、其の外親しき人々日夜とぶらひて、蘇生の者に逢ふがごとく、かつ悦びかついたはる。旅の物うさもいまだ止まざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮拝まんと又舟にのりて、

 

 蛤の ふた見に わかれ行秋そ

 

 私個人としては、この結びの地を訪ねることを、この旅の目標の一つとしており、何を措いてもここだけは見たかったので、旅の最後にここに到達できたことは、本当に嬉しいことであった。近くに「奥の細道むすびの地記念館」という施設もあり、ここに着いた時刻は既に5時を回っていて、閉館時刻を過ぎていたが、「10分ほど」という条件で入館を認めてもらえたので、短時間の見学ではあったが、木因の俳句道標などの展示を見ることが出来たのも良かった。

 

 この後、大垣駅に出て、関西在住の瀬川さん、丸中さんは列車で帰途に着き、辻さんと私は、そのまま再び東名高速、中央高速道を経て帰京した。旅行期間を通じて、終始、沈着・冷静に長時間の運転をしてくださった辻さん、近江・美濃の要地を微細にわたって精力的にご案内くださった瀬川さん、また一貫して温容に笑みを湛えて、グループの和やかな空気を保ってくださった丸中さんに心からの謝意を改めて表したいと思います。楽しい旅を有難うございました。[2012.1.14]

 

 

 

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