春の花たち

 

蝋梅(ロウバイ)119 同左

 

 寒中にひっそりと咲き、梅が咲く前、いつの間にか散ってしまう蝋梅の花を春の花と呼ぶのは、適切ではないかもしれませんが、私にとっては、新春、最初に眼にする花でもあり、冬の季語とされているこの花をここではあえて春の花としておきます。

 私の散歩道でも何箇所かに蝋梅がどれも置き忘れられたように咲いていて、小さな花が一様に下を向いている姿が可憐です。

 蝋梅は、華やかさはないけれど、この地域では寒さが極まる時期に、寒気に耐えて、健気に花開く風情があり、魅力ある花です。

 今年は、2月に入って立春を過ぎたあとも、木枯らしの吹く寒い日が続き、朝の散歩も寒かったのですが、寒かったのは人間ばかりではなかったようです。

 公園の日溜りで寒気を堪(こら)える土鳩たち 214

 蝋梅が開花したときと同じようにひっそりと散ったあと、2月の中頃には梅の花が開き始めます。梅は庭木として、人気があるようで、散歩道の家々の庭で咲く様子をよく眼にします。我が家にある梅の木も毎年花をつけ、雀、ヒヨドリ、メジロなどの野鳥が蜜を吸いに来るのを眺めて楽しんでいます。しかし、梅の花は庭木より、自然に近い状態で咲く様子を見たいと思って近隣を探し歩いたところ、見沼代用水(注1)の西縁沿いに数十本の梅の並木があるのを見つけました。

 

手前が桜の枝、向こう岸に梅 311 手前が梅、橋の奥に桜並木 311

 梅の花を見ると、高校の国語教科書に載っていた「大鏡」に引かれていた次の古歌を思い出します。

 

 東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ   菅原 道真

 

 この歌を特に好きだというわけではなく、作者とされる菅原道真の悲運(政敵、左大臣藤原時平の讒言によって、右大臣の地位を追われ、大宰府に流されたという)に対しても関心や同情を感じているわけでもないのですが、何故かよく思い出してしまうのです。高校生になって古文に触れ始めた頃に出会った、「東風(こち)」という耳慣れない言葉と、末尾の「な・・そ」という禁止の助詞の表現がもの珍しく、印象が強くて、記憶に刻まれたのかもしれません。この歌は、大学受験期のいくつかの苦い記憶とともに、私の心中に住み着いてしまったようです。歌の好き嫌いは別にして、梅の花は好きで、気が向けば、水戸の偕楽園や、越生の梅林へ、観に行くこともあるのですが、今年の梅見は見沼の五部咲きの梅を観ただけで終わってしまいました。

(注1)見沼代用水

 1725年に徳川8代将軍吉宗の命により、それまで現在の東浦和近くにあった見沼溜井を含む地域を干拓し、現在の行田市下中条から利根川の水を引き、全長60kmにおよぶ灌漑用水が作られた。用水は見沼地区をはさんで、西側と東側を流れており、それぞれ西縁、東縁と呼ばれている。代用水の代は、従来の溜井に代わる用水という意味である。この用水は現在も農業用水として利用されている。

木瓜(ボケ)の蕾 130 満開の木瓜 323

 

満開の花桃 328 手前は雪柳、奥は連翹(レンギョウ) 329

 

 3月に入ると、散歩道の風景は急に色彩豊かになり、赤、白、黄色の花たちが次々に開花して、眼を楽しませてくれます。今年は、2月中寒い日が多かったせいか、桃の開花は例年より遅れたようで、桜が咲く頃まで花が残ったために、3月の下旬から4月初めには桜と桃の花を同時に観ることができました。桃の花も梅・桜と同様に毎年咲くのを楽しみにしており、花期には近隣に散在する農地に立つ桃の木を探して歩きます。桃は、梅・桜の淡い紅色に対して濃い紅色が燃え上がって、周囲の空気まで紅く染めてしまいそうな、印象の強い花です。桃の歌としては、万葉集に大伴家持の有名な歌があり、これも高校の頃に憶えたものですが、こちらは一読絵のように鮮やかなイメージが浮ぶ美しい歌です。

 

  春の苑 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ少女(おとめ) 

 

 万葉の頃の乙女とは、どんな少女だったのでしょうか。大岡信氏は、著書「折々のうた」(岩波新書)の「春のうた」の2頁目でこの歌について、「この有名な歌、実景だろうか。桃は満開だったとしても、少女は家持(やかもち)がよび出した夢の乙女ではないのか。」

と書いています。歌のもとになった情景が、夢(想像)にしても、実景にしても夢のように美しい光景だったに違いありません

手前から奥へ、桜、連翹、雪柳、桃 3月29 見沼代用水西縁沿いのお花見風景 同日

 ここ数年、春の花見は、自宅から2km足らずの距離にある、見沼の桜並木へ行くのを習いにしており、今年も月末の土曜日に妻と二人で行ってきました。桜はまだ蕾が少し残っていて、八分咲きの様子でしたが、十分に綺麗で、人出も思ったより少なく、ゆっくりと静かなお花見を楽しむことができました。明の星女子高校裏の桜並木は特に大きく立派で、ヒヨドリが何羽か、花の間を飛び交い、蜜を求めていました。

 

 桜といえば、約40年前、大阪金融機関支店に勤務していた頃の春、土曜の午後、勤務終了後(未だ週休二日制導入の遥か以前のことです)、すぐに事務所を飛び出して近鉄線に乗車し、吉野に向ったことを思い出します。その日の吉野は、山麓の人出は多く賑やかでしたが、上に登るほどに人の姿が減り、奥千本と言われる辺りには殆ど人の姿もなく、桜ばかりの光景だったように記憶しています。その頃読んだ小林秀雄の「西行」の影響から、西行ファンになっていた私は、奥千本にあるという西行庵を訪ねてみようと思ったのですが、そのときは見付からず、夜遅くに西宮の寮に戻ったのでした。吉野にはその後も何度か訪れたのですが、何故か西行庵に出会った記憶がありません。今になって考えてみると、私が行ったのは、上千本までで、奥千本ではなかったのかもしれません。土曜日の午後に大阪を出て、その日のうちに帰る予定だったので、いつも時間が足りなかったのでした。

 その頃の自分が何を求めていたのか、今となっては定かではありませんが、西行の歌は今も好きで、すっかり黄ばんでしまった「山家集」(岩波文庫)の頁を開くこともあります。

 

 よしの山 雲をはかりに 尋ね入りて 心にかけし 花を見るかな

 

 花みれば そのいはれとは なけれども 心のうちぞ 苦しかりける

 

 ねがはくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの もち月の頃

 

 小林秀雄は、西行について「凡そ詩人を解するには、その努めて現はそうとしたところを極めるがよろしく、努めて忘れようとし隠そうとしたところを詮索したとて、何が得られるものではない。」と述べ、西行の歌とその詞書(ことばがき)を読み込む方法によって「生得の歌人」としての西行像を描いています。また、「西行」冒頭の部分では同時代の歌人、藤原定家の秋の歌「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦のとま屋の秋の夕暮れ」と、西行の歌「心なき身にもあはれは知られけり鴫立澤(しぎたつさは)の秋の夕ぐれ」を比較して、「新古今集で、この二つの歌が肩を並べてゐるのを見ると、詩人(西行:筆者注)の傍で、美食家(定家:筆者注)があゝでもないかうでもないと言ってゐる様に見える。」、「三夕の歌(注2)なぞと出鱈目を言ひ習はしたものである。」という辛辣な言葉により、西行を称える一方、俊成、定家、寂蓮ら当時の職業歌人の歌を否定しています。未だ二十代だった私は小林秀雄の断定的で、潔く聞こえる言葉に導かれて、西行に対する関心を持つようになったのでした。

 ところが、最近読んだ堀田善衛の「定家明月記私抄」には、このような西行観とは対照的な見方が示されており、眼を開かされる思いになったのでした。同書は、藤原定家の漢文による56年間にわたる日記「明月記」を読み解きながら、一言で言えば定家の歌人としての成長を記述し、併せて平安朝末期の時代と社会を描いた著述ですが、このような通り一遍の言葉では表現しきれない様々な事象・人間を描いた魅力的な著述です。

(注2) 三夕の歌

上記の定家、西行の2首に加えて、寂蓮の「さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮」の1首を加えた3首のいずれも秋の夕暮で結ばれる名歌を三夕の歌と称した。これらの3首は、新古今集上に並んで掲載されている。

 

 著述中に「西行との出会」、「花も紅葉もなかりけり」と題する連続する二章があり、西行(69)、定家(25)の出会いとともに、西行の遺した多くの逸話によって西行の人物像が描かれています。例えば「(西行は)遁世後といえども権力の中枢に立った人々との交渉は絶えたことがなかった。鳥羽法皇、崇徳上皇、入道信西、平清盛、源頼朝、藤原秀衡等、数えて行けば百人を越え、出家などというよりも、“政僧”という言葉を使いたくなるほどの部分を色濃くもっているのである。」「西行のような人にしても千載集撰歌の進んでいた頃に、俊成(千載集撰者:筆者注)のもとへ『伊勢より浜木綿遣し』たり、『小貝ひろひて箱に入れて包みこめて』送ったりして注意を喚起しているのである。」など、週刊誌的暴露記事にも似たと言えそうな記述があり、定家と西行の出会いについては、定家を次世代の歌道の代表者と見抜いた西行の方から、接触を求めたように記されています。また、小林秀雄が否定した「見渡せば花も紅葉も・・・・については、「私(堀田善衛)には雅楽風の対位法の流れているシンセサイザーによる音楽のように聞え、かつ見える。(中略)この一首は向後の日本文化に、特に茶道に大きな影を落した。」と述べ、小林秀雄とは反対に高く評価しています。この著書による西行像は、小林秀雄による西行像とは違い、卑俗な側面も多分に備えた「異様な大人物」(堀田)として表わされているのです。

 この二つの西行像のいずれが真実なのか、あるいは真実に近いのか判断に迷うところですが、「定家明月記私抄」には、西行の歌そのものについての論評はまったくなく、西行の歌人としての側面も殆ど語られていないので、西行の歌自体あるいは歌人としての評価が貶められている訳ではありません。また小林の「西行」にしても、よく読めば西行は歌にだけ関心を持った専門歌人としてではなく、「彼の悩みは専門歌道の上にあったのではない。陰謀、戦乱、火災、飢饉、悪疫、地震、洪水、の間にいかに処すべきかを想った正直な一人の人間の荒々しい悩みであった。」と記されているように、いわば時代の課題に直面して臆さず行動した行動人であって、そのような行動人がたまたま天賦の歌才を備えた人であったと言う風に読めるのではないかと思います。つまり二人の西行像に基本的な矛盾・対立はないので、両方ともそれぞれ真実であると考えても良いと思うのです。ただし、小林の西行像は細部を省略し過ぎている反面、堀田の西行像(注3)は細部を主柱のようにして組み立てた西行像になっているのではないかというのが私の素朴な感想です。

(3) 堀田善衛の西行観

 この小文に堀田の西行像として記述した内容は、「定家明月記私抄」の上記の2章に基づいて要約したものである。堀田は、「西行との出会」の章の冒頭に「私は青春の頃に、『西行』と題する長々しい文章を書いたことがある。戦中のこととて、それは中断した。」と書いている。したがってこの2章以外にも堀田の西行観が残されている可能性はあり、それが小林の西行観と鋭く対立する可能性は否定できない。

 

若葉によって色づく公園の木立 46 農地の端で綻ぶ海棠(カイドウ) 同日

 春の花たちが次々と花開き、散って行くのを眺めているうちに、若葉の緑は日増しに濃くなり、ハナミズキの葉が赤と白とに色づき、街は初夏の装いに変わろうとしています。

 

 最後に春を送る歌として、これも有名な唐詩の一部を引きます。劉廷芝という唐の詩人の「代悲白頭翁(白頭を悲しむ翁に代わる)」という七言二十六行にわたる長詩の六行です。

 

 洛陽城東桃李花  洛陽城東 桃李の花

 飛来飛去落誰家  飛び来り飛び去って誰()が家にか落つる

 (以下8行略)

 年々歳々花相似  年々歳々花相似たり(はなあいにたり)

 歳々年々人不同  歳々年々人同じからず

 寄言全盛紅顔子  言を寄す 全盛の紅顔の子

 応憐半死白頭翁  応に(まさに)憐れむべし 半死の白頭翁  

 (以下12行略)                      唐詩選上(岩波文庫) 前野直彬訳・注解より

                         

 詩の大意は、今盛りと咲き誇っている美しい桃李の花も、血気盛んな紅顔の若者も、やがては老い衰える日を迎えるだろう。花は毎年変わらずに咲くけれど、それを愛でる人々の顔ぶれは変わり、去年いた人も今年はいない。だから、若者よ、白髪頭になって老いを悲しむ老人を思いやってくれといったところでしょうか。半死白頭翁という言葉が大げさでおかしくもあり、悲しくも聞える詩ではないでしょうか。

 長年親しく付き合ってきた、友人・知人、かつての先輩・同僚の訃報に接することの絶えない身として、「歳々年々人不同」の思いは、春を迎え、春を送る都度、深まるようです。

私自身も来年は、古希の歳を迎える半死の白頭翁(禿頭翁と言った方が適切かもしれませんが)です。いつまで春の花を楽しめるのか、保証の限りではないのですが、歳を重ねるほどに、周囲の自然に対する親愛感は益々強まるようです。この感情が究極に至って、自然と自己とが一体化した境地が「ねがはくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの もち月の頃」ということになるのかもしれません。目下(もっか)の私の心境は、そのような境地になりたくもあり、なりたくもなしといったところです。 (2008.4.15)

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