熊野再訪―中辺路を歩く―(その二)
7月9日(水)曇り ときどき 晴れ 川湯温泉〜新宮〜那智山〜紀伊勝浦
宿のご主人の車で、請川バス停まで送って頂き、新宮行きのバスを待つ。バスを待つ間、今から近くの畑に農作業に行くという小母さんと立ち話。古道を歩いて来たことを話すと、驚いた様子で、「地元にいても一度も行ったことはないよ。すぐ近くに山も川もあって、温泉まである奇麗なところだから、どこへも行く気にならんねー。」と言う。7時半発の新宮行きに乗車。1時間弱で、新宮速玉大社最寄りの権現前バス停に着く。
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| 速玉大社社殿 8:43am | 佐藤春夫記念館前 |
熊野速玉大社は、本宮大社と比べると、やや華美に感じられる建築である。熊野三山の中では、唯一街中に位置しているためでもあろうか、熊野本宮、那智大社の神々しい雰囲気が希薄であるように感じてしまう。速玉大社の神性を感じるためには、熊野信仰の根元になったと言われる神倉山のゴトビキ岩を見てくるべきだったかもしれない。境内にある佐藤春夫記念館が開いたので、入ってみる。館内は、外から見て予想したよりは広く、詩人の遺した様々な品が展示されている。また、佐藤春夫が生前に録音した自作詩の朗読の放送が絶え間なく館内に響いている。詩人の風貌に似つかわしい太く低い声で、秋刀魚の歌や、望郷五月歌などの抒情詩朗読が流れているのが、厳粛にも、可笑しくも聞こえて、不思議な感じであった。記念館を出て、先刻と同じ権現前バス停から、反対方向の那智へ向かう。那智駅に着くと、ちょうどバスが出たばかりだったので、タクシーに乗り、那智山へ向かう。駅からすぐの補陀洛山寺でいったん下車する。補陀洛山寺は、中世から近世にかけて行われたという、南海上にあると信じられた補陀洛浄土を目指す船旅の拠点となった寺である。境内に建つ石碑には、この補陀洛渡海(注1)に出た代々の住職達の名が刻まれていた。渡海の年代順に刻まれた名の五番目に平清盛の嫡孫、富士川の合戦で大敗した平家軍の総大将を務めた平維盛の名がある。碑に刻まれた25人の名前のうち、僧侶ではない唯一の名前である。
注1補陀洛渡海;南海にあると信じられた補陀洛浄土を目指して、中世に行われた捨身行。渡海者は、小舟の上に作られた屋形の中に閉じ込められ、事実上の死出の旅に出された。
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| 補陀洛山寺本堂 10:43am | 渡海者名を刻んだ石碑 10:41am |
平家物語巻第十は、維盛の最後について「維盛出家」、「熊野参詣」、「維盛入水」の3章を設けて詳細に記述している。その記述によれば、源氏軍との戦いの前線基地だった屋島にいた維盛は、都に残して来た妻子恋しさに耐えかねてひそかに戦線を離脱し、船で紀伊半島へ渡る。しかし、既に源氏の勢力下に落ちた都には戻れず、高野山に旧知の僧、滝口入道を訪ねて出家し、父平重盛と縁の深かった熊野本宮に参詣するが、ここでも死にきれず、新宮から那智山にも参詣した後、進退窮まり、最後の覚悟を固めて、那智の浜宮(はまのみや)というところから、小舟を漕ぎ出す。
頃は三月二十八日の事なれば、海路遥かに霞み渡り、哀れを催す類(たぐ)ひかな。只大方の春だにも、暮れ行く空は物憂きに、況やこれは今日を最後、只今限りの事なれば、さこそは心細かりけめ。(中略)西に向ひ手を合せ、念佛し給ふ心の中にも、「さても都には、今を限りとは爭(いか)でか知るべきなれば、風の便りの音信(おとづれ)をも、今や今やと待たんずらめ」と思はれければ、合掌を亂(みだ)り、念佛を止め、聖(ひじり)に向って宣(のたま)ひけるは、「あはれ、人の身に、妻子と云ふ者をば、持つまじかりけるものかな。今生(こんじょう)にて物を思はするのみならず、後世菩提の妨げとなりぬる事こそ口惜しけれ。只今も思ひ出でたるぞや。かやうの事を心中に残せば、餘(あま)りに罪深かんなる間、懺悔するなり」とぞ宣ひけり。
聖も哀れに思ひけれども、われさえ心弱うては、叶はじとや、思ひけん、涙押拭(おしのご)ひ、さらぬ體(てい)にもてなし、(中略)・・とて、頻りに鐘打鳴らし、念佛を勸(すす)め奉れば、中將(注2)も然るべき善知識と思し召し、忽ちに妄念を翻(ひるがえ)し、西に向ひ手を合せ、高聲(かうじゃう)に念佛百返許(ひゃっぺんばか)り唱へ給ひて、南無と唱ふる聲共に、海にぞ飛び入り給ひける。
注2;中將は、平維盛の朝廷での役職。
平維盛という人は、武門の嫡男として生まれながら、性格が優しすぎたのか、武将にはなりきれない人物だったようで、最後まで妻子に思いを残して入水する姿が哀れである。反面、維盛に対して、自ら見て来たかのような口調で極楽往生の功徳を説き、鐘を打ち鳴らし、念仏を勧める滝口入道に対しては、「何も死に急ぐことを、熱心に勧めなくてもいいじゃあないか!」と言いたくなる。補陀洛渡海あるいは浄土信仰というものの残酷な一面を平家物語のこの一節は鮮やかに映し出している。
補陀洛山寺から、同じ車で那智山へ向う。最後の上り坂、五百段と言われる石段を登って、先ずは青岸渡寺に参詣する。続いて直ぐ左手にある那智大社に参る。
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6年前にここを訪れたときには、仏教(天台宗)寺院と、神社が隣り合わせで、親密な感じで共存しているのが不思議に感じられた記憶がある。しかし、那智大社と青岸渡寺の由緒書等によれば、元々両者は那智権現として一体のものであり、神仏を合せて祀り、信仰されていたが、明治の神仏分離令によって分離させられ、一時は(特に仏寺側は)衰微に向う。その後、明治4年に那智権現は熊野那智大社と称し、那智権現の一部であった如意輪堂が明治7年に独立、青岸渡寺として再出発し、徐々に復興努力して今日の形に至ったもののようである。 |
那智大社本殿と大楠 11:23pm
この歴史を振り返れば、両者の親密な関係は、不思議なことではなく、むしろ当然のことと考えられる。ただ、このようにいったん分かれてしまった寺と神社が、再び統合して昔の素朴な信仰の形に返るのは難しいだろう。私自身は、信者でもない無責任な野次馬に過ぎないが、せめて現在の相互に親密かつ寛容な関係はこれからも、永く維持してほしいと思う。
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参詣を終えて、青岸渡寺境内の三重塔横を通って、大きな石段を下り、那智大滝へ向う。
大滝周辺には、平日にもかかわらず、かなりの観光客が出入りしていた。滝は梅雨時のためもあってか、水量が豊富で、荘厳・清浄な空気は変わらないように感じられた。 |
青岸渡寺境内から大滝を望む 11:37am
那智大社発行のパンフレットによれば、注連縄の張り替え作業は毎年七月九日と十二月二十七日に行われるとのこと、七月九日といえば、今日だから、あの注連縄は張ったばかりの真新しいものということになる。那智の大滝参拝を終えて、私達一行3人の熊野古道の旅は、終わった。今回は残念ながら、中辺路40kmの完全踏破は成らなかったが、この主因は、私達自身ではなく、天候にあるのだから、いたしかたない。むしろ健康でさえいれば、険しい山道でもかなり歩けるという自信を得られたことに大きい意味があるように思う。
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三筋に分かれて落ちる大滝と注連縄 11:40am
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滝前の茶店で昼食をとり、しばらく休んだ後、バスに乗り、紀伊勝浦駅に向う。駅前に足湯があり、三日間酷使した足を温泉に浸す。ぬるめのお湯が疲れた足に快かった。名古屋行きの便がないため、ここから、紀勢線の特急列車で三人とも大阪方面に向う。丸中さんとは、来たときと同じ天王寺で別れ、辻さんと私は新大阪から、新幹線のぞみで東京へ。 |
紀伊勝浦駅前の足湯に浸かる 2:35pm
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私にとって熊野とは?
6年前に熊野をはじめて旅した時に、感想を拙い文章に書き、旧友に見てもらったところ、彼は、「熊野にはこれから続けて行くのか」を私に問い、「熊野は、簡単には分からないところだから。」という意味のことを言ってくれた。当時、私がその言葉の意味を正確に理解したかどうかははっきりと記憶に残っていないけれど、今になって思い出してみると、思い当たる点が多くあり、今さらながらこの旧友の慧眼に感嘆している。
二度の旅を通して、私は熊野の魅力と謎にとりつかれ、益々熊野を深く体験してみたいという思いが強まっている。そこで、私にとって熊野とは、どんな場所かという事について、整理しておこうと思う。
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親しみやすく美しい自然とおおらかな人々
熊野の土地を隈なく歩いたわけでもなく、またそこに住む人たちと親しく付き合ったわけでもないので、格別なことは言えないが、熊野の山と川は、はじめて訪れる人をも優しく、温かく受け入れてくれる雰囲気を湛えているように見える。昭和20年6歳の秋、両親・兄姉等の家族とともに中国大陸から引き揚げて来たとき、引揚船上から見た日本(九州)の山々の、緑豊かで、いかにも暖かそうな光景が、今も鮮明に、幼時の記憶の一つとして残っているが、熊野の山々には、その記憶の中の原風景に似た、日本の山、故郷の山という印象があるように私には感じられる。
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| 高原霧の里休憩所からの眺望 7月7日 0:18pm | 継桜王子社付近からの眺望 7月8日 9:27am |
古道を日中に歩くと、人にほとんど出会わない一方、鶯などの野鳥の囀りは絶えず聞こえてきて、山歩きの疲れを忘れさせてくれる。人の出入りは、世界遺産に指定された後も、さほど増えてはいないように見えるが、私達が歩いた範囲では、過疎などによる荒廃の影はまったく無く、山も川も、道路も田畑も、家々も人の手が適度に加えられて、整えられている様子があり、この地域に住む人々の、土地に対する深い愛情が感じられる。請側のバス停で出会った小母さんのように、この美しい土地に生まれ育った人たちは誰も、「どこへも行く気にならんねー」と言うのではないだろうか。
A
伝説(物語)と歴史(史実)の宝庫
平安京や鎌倉幕府などの政治・文化の中心地から見れば、僻遠の地でありながら、熊野御幸・熊野詣という形で人の出入りの多い土地であったためか、熊野を舞台とする伝説や歴史的な事件は数多く、それらが熊野の地の謎めいた魅力を構成している。今回、私達が通過した場所に伝えられている物語、史実の類を順不同に挙げてみると、「紀伊田辺の武蔵坊弁慶生誕伝説」、「熊野古道館のビデオで見た安珍・清姫の物語」、「滝尻王子近くの藤原秀衡夫妻の乳岩伝説」、「一遍上人の熊野本宮参籠と、参詣の途次における熊野権現の出現伝説(?)」、「文覺(もんがく)上人の那智の滝における荒行」、「平重盛・維盛親子の本宮證誠殿参詣」、「維盛の那智沖入水伝説」、「25人の僧俗による補陀洛渡海」、「藤原秀衡の手植えの桜(継桜王子と那智大社)」、「和泉式部の伏拝王子における逸話伝説」等々、これらに加えて十世紀はじめから、十三世紀末ころまで行われた「皇族等による百数十回におよぶ熊野御幸」があり、熊野に伝わる伝説と歴史上の事件を数え上げるときりがない。そして、これらのできごと(伝説物語の場合は、その元になった事実)の殆どは、熊野御幸など当事者による記録が残されたもの以外は伝承に基づいて後世に伝えられたものだから、事実を確認する方法が乏しい反面、それらについて空想を働かせる余地が広いとも言え、そのことが数々の物語や、文芸作品を生み出す源泉になっている。例えば、6年前に出版された、中上健次夫人の紀和鏡氏による「夢熊野」という作品があり、奇譚風に書かれた歴史小説の大作で、非常に興味深い作品である。物語の主人公(ヒロイン)は丹鶴姫、頼朝、義経の祖父源為義の娘として熊野に生まれ育ち、熊野別当湛増の妻となるなどと書いても物語の面白さは伝えられない。この姫が熊野に隠棲する鬼に攫われて、生んだ双子の一人が後の武蔵坊弁慶といえば荒唐無稽な物語ということにもなりかねないが、私はこの小説を、最初の熊野旅行の記憶がまだ新しかった頃に、興味津々、読み進むのが惜しいような思いをしながら、読んだことを思い出す。ともあれ、熊野は私にとって、伝説と歴史の宝庫のように見え、その宝庫から、次にどんな宝物を発見できるのかを期待しながら、歩ける限り、熊野探訪を続けたい。
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神仏習合の地
私自身は、神道や仏教の信者ではなく、その他のどんな宗教も信仰する気持はなく、入信の勧誘を受けることも好きではないけれど、信仰を持てたら、気持が楽になれるかもしれないと想像したことはあり、人間一般が自己の力を過信したり、傲慢になったりしないように、超越者の存在を想像することは悪いことではないとも思う。ただ、神の名において戦争やあらゆる悪事を働いてきたのが人間の歴史の一面であり、そのような歴史は現在も世界各地で続いているから、そうした誤りから自分を遠ざけるために、唯一の神や、ただ一人の人物(例えば、天皇やマルクス)を(知る努力はしても、)信仰することはしないというのが今の私の立場である。6年前に、熊野をはじめて訪れ、かつて隆盛した神仏習合の残映というべきものに触れたとき、私は「この信仰のあり方は、(例えば、キリスト教や、イスラム教とは)どこか違う、何か懐かしい、平和で寛容な魅力がある。」という印象を受け、それが何であるのかを知りたいと思ったのだった。一方では、私のごく身近なところでも、庚申講などの民間信仰における神仏習合の現れらしいものに触れる機会があり、益々この疑問に対する関心は強くなった。
義江彰夫氏の著書「神仏習合」(岩波新書)には、このような疑問に対する答にあたる考え方が示されており、例えば氏が神仏習合の原点と考える8〜9世紀の神宮寺生成確立の歴史に関して次のような記述がある。
インドにおいては、大局的には仏教はヒンドゥー教にまるごととりこまれる道をたどった。中国仏教は老荘思想と結合することはあるが、仏教寺院内に道観(道教寺院)が造られた例はない。他方、ヨーロッパでは、キリスト教寺院と接してゲルマン・ケルトの聖地が併存することなど考える余地もない。この意味で神宮寺の出現は、普遍宗教としての仏教と基層信仰としての神祇信仰が、各々の独自の信仰と教理の体系を維持したままで、開かれた系で結ばれたという、日本独自の宗教構造のあり方を示している。
この本は、上記の神宮寺の建立・普及以後、空海による大乗真言密教の導入、菅原道真等の怨霊信仰の成立、浄土信仰の普及・発展から本地垂迹説の確立に至る8世紀から15世紀頃までの神仏習合の歴史を、同時代の政権および経済社会の変化・発展との関連において見事に分析しており、教えられる点の多い書物であった。例えば、司馬遼太郎氏の「空海の風景」ではよく理解できなかった弘法大師・空海という人物の偉大さがこの本を読んではじめて納得できたし、また神仏習合という現象が、熊野に限らず、中世日本の信仰のあり方の中で、普遍的な現象であったことも良く理解できた。一方、この本では、神仏習合はその歴史的使命を十五世紀までに完うしたと書いており、従ってまた、例えば熊野の地に僅かに生き残っているように見える神仏習合思想の現代における意義については触れてはいない。私自身には、それでも神仏習合というものを、単に過去の迷信として捨て去ってしまうのは惜しい気持(未練と言ってもいい)がまだ残っていて、このおおらかな思想を経済効率と、それが生み出す利益の支配する非情な現代日本社会に対する異議申立ての柱の一つとして、立ち上げることはできないものかと夢想するのである。一遍上人が熊野権現参籠中に、夢に現れた権現が一遍に告げたとされる次の言葉など、仏の前には生きとし生けるものすべてが平等であるとする点において徹底しており、現代の若者に対しても、十分に訴える魅力を備えているのではないかと、私は思うのだが。
「阿弥陀仏の十劫正覚に、一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と必定するところ也。信不信を選ばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」としめし給ふ。(「一編聖絵」聖戒編;岩波文庫版より)
あとがき
熊野再訪―中辺路を歩く―(その一、その二)は、「その一」のはじめに記したとおり、本MICの会友仲間である辻淳二さん、丸中正量さんと、私(蜑コ彊)の三人で、今年の7月6日〜9日にかけて行った熊野旅行の記録です。会友仲間でのこうした旅行は、私にとってはじめて経験することでもあり、多少の不安がないではなかったのですが、三人が紀勢線特急の車中で顔を合わせた後は、旧知の友人のように、和気あいあい、気の合う仲間どうしの楽しい旅になりました。本文には書かなかった、宿での語らいも豊富な体験を重ねてきたお二人との間で、会話が弾み、楽しい一刻になりました。このような機会を提供してくださったお二人に感謝しつつ、またの機会があることも期しながら拙文を閉じることにします。なお、本文に関連する過去に書いた文章として、「熊野漫歩記」と「散歩道から見えるもの」があります。これらも併せて読んで頂ければ幸いです。(2008.8.6記)